昭和57年 4月20日 朝の御理解 入力者【明渡徳子】
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御理解第51節「天地の間に住む人間は神の氏子。身の上に痛み病気あっては、家業できがたし。身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、氏子身の上のこと何なりとも、実意をもって願え」
天地金乃神は願いの神だとふうに最近申しております。ですからあたくしどもも、やはり願いの氏子ということになることが、神様のお心と1つになることだと思うんです。えー、もちろん信心も出来ませんのに、まあかくおかげを頂いて、お礼の足りないお詫びと、まあ三代金光様が教えられるような、もちろんそういうお礼の足りないお詫びも、またはお礼も申し上げる中に、1番祈りの芯になるものは願いだと思うです。
で、今日の御理解を頂きますと、それこそ牛馬のことにいたるまでというね、家行成就、身の上安全。もう何なりとも実意をもって願えとこう仰っておられます。問題は、その実意なんです。まああたくしが本当に心に願っておるものというふうに頂いてもいいでしょうね。心の底から願っておること。同時にお道の信心でいう実意丁寧神信心。
その自分の願っておることが、んー、我情ではない、我欲ではないね、それでいて願わずにはおれない願い。あたくしは昨日の高柴さんの告別式を拝ませて頂いて、えー、なるほど、んー、自分が助かるということと同時にー、人が助かるということ。あたくしどもが例えば、今言うならあたくしどもがお国替えを頂いて、果たしてどれだけの安心と喜びを残しておけれるか。
またどれだけー、社会にというか、人の世に貢献したか。自分を中心にしてどれだけ人がー、助かることの手立てにでもなったかというふうに思うと、ただ自分の実意をもって願うのではなくて、自分の我情を願い、我欲を願っておるといったような生涯では、これはほんとに信心を頂いておる値打ちはないと思うですね、ね。
あたくしどもの周辺にどれだけ、えー潤い、または助かり。そういうー、願いをしかも実意を持って願わせて頂けれる信心。あたくしは、えー、告別式が終りましてから、あちらの長男のまさおさんがご挨拶をさして頂いておるのを聞いておって、何か心の安らぐ思い、御霊が喜んでるだろうと言う思い。何かそんなー、んー、高柴家も大丈夫だなと言ったようなものを観じたわけなんですけど。
そしたら御神願に亡くなられる数十分前に頂いたナマズの、あのお知らせでしたけども、そのナマズがこう泳いでいる後から、まあドジョウのような小さい、やっぱりあのー、ナマズの子だろうか、ドジョウだろうかと思うようなのがいっぱい後から付いて行くところを頂きましたんですね。
あたくしどもがね、ほんとに願わずにはおられない。しかもその願いはどこまでも実意というのは、あたくしはあの、信心の子供達への継承ではなかろうかと思うんですね。これなら我情じゃない、我欲じゃないね。皆さんが熱心に信心頂いておかげを受けておられる。その信心が子供達に伝わって行くと言う事。信心の継承。これをもっともっと切実にあたくしは実意を持って、いや、子供の事を思うその切実心というものは、これはもう実意なんです。
ね、子供がその信心のいわゆる継承がでける。まあ最近思いますことですけれども、あたくしどものいわゆるあの、子供達がそれぞれに成長のおかげを頂いて、まあー、おかげを頂いております。とりわけ若先生が、例えば昨日の告別式の祭主を勤めさせて頂いて、んー、まあ言うならば堂々と合楽の二代としての責任においての勤めが段々でけてくるようになったね。
言うならば、あの様子を見て親も安心。だから子供達の姿というのを見て、この人達がこの信心を、このようにして受け継いで行ってくれる限り安心という、その安心のでけれる信心を頂きたいですね。実意を持って願わなければならん。牛馬にのこといたるまで、家業成就、身の上の事何なりともというその中の第一に、あたくしはこれはもう実意だと言うのが親が子のことを思う実意。
そこでその子供達に信心の継承を本気で、もう少し本気で願わなければいけないというふうに思うんです。そしてもうこの人達がここまで信心を頂いてくれたからと、親が安心の出来るところまでの信心の継承を祈り、願わなければならんと思うですね、ね。ね。あたくしどもがおかげを頂いて、言うならば信心の喜びと驚きに日々浸らして頂いておる、この信心の驚きと喜びをね、子供にも孫にもやはり伝えていきたい。
だから伝えていきたいと言う思いで、これをもっともっと切実に願う。それこそ実意をもって願う、ね。まあ昨日の告別式を頂いて、私がね、高柴家の家に感じた心の安らぎ。また、あー、あたくしの子供達の上にね、子供達がね、これほどまでの信心のお育てと成長を頂いて行っておれば、言うならばその事に対してだけは安心しておれれる。お礼が申し上げられると言うような事を、まあ感じましたんですけれどもね。
今日は51節です。人生はわずか50年と言う、まあ昔はそう言ってました。ね、だからあたくしどももその人生と言うものがですね、言うならば50歳を越えたところからは何を願うかと言うたら、もうただただ言うなら余生を子に孫に、この尊い信心を分かってもらいたいと言う願い一筋にね、祈らしてもらう。
⑧●切実心。これはもうまさしく、私は親の実意だと思います。今日はその事をあたしはここに感じましたね。なるほど牛馬の事にいたるまでね、身の上の事何なりとも、もうね家業の事から全てを願っても良いのですけれども、段々信心が分からして頂くとね、そういう願いもね、神様の願いと一致する願いに段々昇華してくる、高度化してくるわけですね。
ただ自分が楽をしたいばっかりで、自分の我情我欲を満たして下さいという願いではなくて、その願いの筋は同じですよ。商売繁盛であったりね、家業の成就であったりね、健康の事であったりですけれども、それが神の願いと一致する、ね。神の願いと1つになる、言うならば内容を高めていかなければならん●と。
⑧●例えばどうぞ商売繁盛をと、こう願う。繁盛する事によって神様のお役にも立たせて頂ける事のためにというふうになったら、神の願いと一致する1つになるわけですからね。健康でもそうです。ただ健康になりたい、健康になりたい。健康になったばっかりに言うならば、あー、腕力を振るうといったような事になっては、神様の心には通じませんけれども、健康にならせて頂いたその健康を持って、言うなら神様の御用にも立たせてもらおうと、手にも足にもならせて頂こうと言うようなそういう願いが、その根底に出来てくる。
神の願いと1つになるね、天地金乃神は願いの神。その信奉者もまた、願いの氏子として、神の願いと1つになれるような願いを段々出来るようにおかげを頂きたい。中でも、これだけはもう実意だと。親が子を思う。子に孫にこの有難い信心が伝わっていく事を、もっともっと切実心を持って、まあ50を過ぎたその、たらですね。もう私は余生を子に孫に伝えると言う事だけに専念する、または修行する、または祈らしてもらうという事でもあたくしは良いとさえ思います。●
そして、それはもうどこまでも我情じゃない、我欲じゃない。それは親が子を思う切実心。実意である。それがほんとの実意である。子供の幸せを願うならば、どうしても信心の継承を願わずにはおれないということになるんじゃないですかね。どうぞ。